※作者による中国語の感想を翻訳したものです。
普段は好きに書けばいい。でもコンテストに出すなら、業界の人がどう見るかを知る必要があります。
私はずっと一人で書いてきて、ほかの書き手や読者とはほとんど交流がありませんでした。作品の良し悪しを判断する感覚は、映画評論のツッコミ動画や作家の講座番組で身につけました。数えきれない作品を見てきた人たちが共通して指し示す「手法」なら、きっと確かな方向だと信じていたからです。
15年間、私は『靈魂的羽毛』という一作だけを書き続けてきました。家族や友人の感想をもとに構成を何度も壊しては書き直し、後悔しない「第一章」を目指しましたが、はっきりした手がかりはつかめずにいました。
数年前、鬱兔が講評企画をしているのを見かけ、しばらく様子を見ていました。仲間内で褒め合うだけの企画なら参加する意味はない、と。何回か聴いてみると、鬱兔は真剣に意見を出していました。厳しく叩くことはないけれど、中身のない褒め言葉もない。何より、彼女の好みや視点は私が学んできた技法とよく似ていました——つまり、作品に対する価値観が近かったのです。
そこで、当時いちばん良いバージョンで講評に応募しました。
先生は本当の意味での「きつい言葉」は言わないので、実のある収穫を得るには、作品を読むときの反応の裏にある言外の意味を読み取る必要があると考えました。本当に興味を持ったとき、興味がないとき、読んでいて気まずいときの反応——どれもほかの作品の講評を見れば、ある程度わかります。
初めての講評で、私が下した結論は——平凡で、完全にアウト。
先生の反応を持ち帰り、自分の語り方を見直しました。読者がキャラの性格も舞台も動機も知らないうちに、双方が斬り合う場面を延々と描くのが面白いと、なぜ思ったのだろう?
そこで創作の考え方を切り替え、キャラが見る人・出来事・物に焦点を当て、その感覚を通して本人と世界を紹介するようにしました。書き上げて家族や友人に見せると、みんな目を輝かせ、以前とは明らかに違うと言ってくれました。
2022年、KadoKado(角角者)が第1回創作大賞を開催する直前に、鬱兔先生が再び講評の応募を募集していたので、もう一度応募しました。前後2回で先生の反応がどう違うか確かめたかったのです。
今回は非常に良い評価をもらえました。それが先生が本当に「いいね」と思ったときの反応だとわかり、胸が高鳴りました。自分が確かに成長したと確信でき、ついに「第一章」を仕上げられたのです。KadoKadoのコンテストに出して、たとえ入選しなくても恥ずかしくはない、と。
結果、最終選考を勝ち抜き、思いがけず受賞しました。振り返ると、鬱兔の講評は努力の成果を確かめるだけでなく、先生の言葉から自信をもらえる場でした。自分の力を信じられてこそ、創作は前向きなものになります。
書き手の心が弱っていて、自分さえ納得できない作品では、どうやって審査員の目を引けるでしょう?だからこそ、書き手は自分と作品にチャンスを与える価値があると思います。長年業界で活躍する先輩——鬱兔——に見てもらえば、盲点を突破するきっかけは先生の一言の中にあるかもしれません。



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